機関誌「はねだ」連載 「民間航空界の動き」より |
このページは羽田団の機関誌「はねだ」に平成16年第33号から連載されている
「民間航空界の動き」を改めて団員の皆さんに紹介します。
目 次
号数 |
執筆者 |
発行日 |
第47号 | 顧問:久保俊郎 | 平成23年 6月 1日発行 |
第46号 | 顧問:久保俊郎 | 平成22年12月 1日発行 |
第45号 | 顧問:久保俊郎 | 平成22年 6月 1日発行 |
第44号 | 顧問:久保俊郎 | 平成21年12月 1日発行 |
第43号 | 顧問:久保俊郎 | 平成21年 6月 1日発行 |
第42号 | 顧問:久保俊郎 | 平成20年12月 1日発行 |
第41号 | 顧問:久保俊郎 | 平成20年 6月 1日発行 |
第40号 | 顧問:久保俊郎 | 平成19年12月 1日発行 |
第39号 | 編集部 | 平成19年 6月 1日発行 |
第38号 | 編集部 | 平成18年12月 1日発行 |
第37号 | 編集部 | 平成18年 6月 1日発行 |
第36号 | 編集部 | 平成17年12月 1日発行 |
第35号 | 顧問:久保俊郎 | 平成17年 6月 1日発行 |
第34号 | 顧問:久保俊郎 | 平成16年12月 1日発行 |
第33号 | 顧問:久保俊郎 | 平成16年 6月 1日発行 |
第47号 平成23年6月1日発行 「民間航空界の動き」 顧問:久保俊郎
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第46号 平成22年12月1日発行 「民間航空界の動き」 顧問:久保俊郎
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第45号 平成22年6月1日発行 「民間航空界の動き」 顧間 久保 俊郎
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第44号 平成21年12月1日発行 「民間航空の動き」 顧問 久保俊郎 | ||
1. | 静岡空港は今年3月、2500メートルの滑走路新設でオープンの予定であった。しかし滑走路端から1400メートルの地区に立木が存在し、これが安全着陸を阻害するため、暫定的に滑走路を短縮して使用する計画もあった。いろいろ協議の結果、フル使用のため立木を伐採し、代わりに町長は退任する条件で、6月にオープンした。就航予定路線は札幌、沖縄、ソウル線だが、全国で99番目に出来た空港が、果してこの不景気の時代に予測通りの集客ができるかどうか不安である。(6月20日) | |
2. |
ナショナル・フラグキャリアを潰すな。戦後最大の第3セクターとしてスタートした日本航空が、この一年余の財政、金融の不具合から、存亡の危機に瀕している。会社は *企業年金制度の改定(支給額の引下げ) *特別早期退職の実施
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3. | 国が管理する空港のうち、22空港が赤字経営に落ち込んでいるという。空港の収支は社会資本整備事業特別会計で管理されているが、営業損益は別表の通りである。 赤字の大きいのは福岡、那覇、新潟、羽田等だが、黒字は大阪(伊丹)千歳、鹿児島、熊本で、東京からの利用度、アクセスの良さ等で想像できる。株式会社組織の成田、関西、名古屋は未調査。 航空会社は不採算路線から撤退する動きも相次いでいる。 |
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4. | 所謂ジャンボ機といわれるB747-100型機(500人乗り)が、1970年(昭和45年)に日本(羽田)に出現して約40年、日本の空を引退することとなった。 | |
当時は大量高速輸送時代として、DC10型などとともに、国際線をはじめ、日航が68機、全日空が23機使用し、多客期、台風などでスケヂュールが乱れた時には、大型機としておおいに活躍した。現在400型機が出現して、主として燃費と騒音の問題で、在来機はクラシックと呼ばれる様になった。) 私が羽田で初の就航を見たのは、PAAの世界一周機で、同社は職員全員で春の一便を目指して毎夜、冬の寒さをついて、手荷物、貨物の取扱を訓練していた。(7月24日) | ||
5. | 「ツェッペリン伯号来る」とて(空中)飛行船がはじめて日本の空にやってきたのは昭和4年(1929年)8月というから、丁度80年前で、私は4才の時であった。 全長235メートル、高度600メートルというから、日本では複葉機が飛んでいた時代だ。 「UFOが飛んできた」という感じに似たものではなかったか。だが黄金期は短く、37年に事故があり、一次大戦中にすべて解体された。 日本では戦後97年にツェッペリンNT号を作成し飛ばした。羽田に基地をおくことは、その速度や高度の関係で輻輳する定期便の合間をとって飛行することは難しく、しかし、ゆったりと眼下の景色を楽しみ、レストランの食事がとれるとあっては、今後世界一周の船の旅と並んで楽しませるかも知れない。(8月19日) |
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6. | 民間航空界は人の輸送も、貨物の輸送も苦境に立たされている。そこで日本航空は日本貨物航空と統合して貨物輸送の恢復を図る。全日空は顧客のニーズにすぐ応えられるよう那覇空港をアジアの貨物事業の中継拠点とし、成田、北京、バンコク等国内外8空港を夜に出発、深夜那覇に着いた荷物を目的地別に積み替え、朝までに8空港に輸送するという。いずれも来春を目途としている。ただし、貨物事業の立て直しは、世界経済の回復に左右されるので、実現には時間がかかると見られる。(8月22日) | |
7. | かって世界航空機産業の1/4を占めたロシアは、競争力を失い、欧米のボーイングやエアバスヘと切り替えを進めている。最大の理由は性能にあり、ツボレフやイリュウシンは燃料消費量は前記欧米機の2倍、他の維持費でも25%高くつくという。航空機の生産でも昨年旅客機は13機で航空会社に納入したのは6、7機。業界で唯一競争力を持つのはリージョナルジェット(地域間輸送機)のスホイスーパージェット(SSJ)リージョナルジェットの分野ではプラジルのエンブラエル社、カナダのボンバルデア社が先行、日本、中国も新規参入を狙ってライバルは多い。「長期的発展のためには人材不足の解消と開発、設計から大量生産、航空会社の購入という関連全体を立て直す必要がある」と関係者はいっている。(9月 8日) | |
8. | 毎日新聞社機ニッポン号が世界一周を果して70年が経つ。 中尾機長(初代東京国際空港長)は、陸軍委託操縦訓練生の一期生で、三菱重工のテストパイロットを務め、 ドイツルフトハンザ航空で最新の無線航法を学び、ニッポン号のパイロットに選ばれた。この飛行を終えて6万キロの航程のあと「決して私たちにとってゴールではないと思っている。 |
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私たちはさらに次のマイルストーン(標石)に向かって進まねばならぬ」と記した。今日の羽田の姿を見透かすように。 | ||
ついでながらニッポン号の快挙の2年前(昭和12年)に、朝日新聞社の神風号に京―ロンドン間(1万5千キロ)の往復飛行をしている。(9月9日) | ||
9. |
前記ニッポン号は1939年8月26日10時27分、羽田を離陸した。3時間余で札幌着。翌27日米アラスカ州ノームまでの北太平洋横断。午後10時過ぎには乗員7名が酸素不足で次々に失神、高度6300メートルで約1時間全員倒れたまま未知の海上を飛行。 中尾機長の手記には「私たちが眠っている間にもニッポン号は正しい針路で快翔し、私たちの代わりに自動操縦装置が完全に操縦を続けた」16時間弱で太平洋横断に成功し、ノームで大歓迎を受けた。 | ![]() |
29日にフェアバンクス、30日にカナダのホワイトホース、31日にシアトル着2泊。中尾機長はここで「日本のリンドバーグだ」とたたえられた。(9月10日) | ||
10. |
日本航空は経営不振から、従来の路線縮小、人員の削減に取り組んでいるが、国土交通省は「発着枠の配分基準検討会」で「地方経済活性化枠」の一部変更を検討しているようだ。 羽田と地方中核都市を結ぶ路線13のうち、従来全日空に9路線、日航に4路線配分していたものを、全日空7路線、日航6路線にする方向で検討している模様である。(9月10日) | |
11. | 経営再建中の日本航空が、米デルタ航空と資本、業務提携交渉に入ったことが、11日
明らかになった。日航は収支改善に向けたリストラ策を策定中だが、自力の再建策だけでは不十分と判断。 世界最大の航空会社の支援で立て直しを目指す。なお全日空は07年、韓国アシアナ航空と資本、業務提携を結んでいる。(9月12日) |
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12. | ニッポン号は汚れの目立った機体を洗い、1939年9月2日、オークランド、そして数万の人に迎えられてロスアンゼルスに着き、日本の少年の挨拶を受けた。「日本の飛行
機が来ると聞いてうそだと思いました。ところがおじさん達は本当に太平洋を越えて大変な仕事をしてくだ
さった。これで僕たちも「日本人だってやる時はやるんだぞ、と友達に胸を張れます」乗員は皆、こらえきれずに泣いた。 |
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4泊してアルバカーキヘ。8日はシカゴに快適飛行。 ミシガン湖の向こうに大きな飛行場が見えた。(9月13日) | ||
13. |
「米国の本当の力は政治的にも外交的にもシカゴを中心とする中部地方にある。この勢力を無視して素通りしてはいけないJ。1939年9月初旬、一行は米ロスアンゼルスで
ロッキード社のロバート.クロス社長に勧められたこの言葉を痛感したのはシカゴ飛行場だ。1700メートルの滑走路が7本もある。当
時東京(羽田)はまだ800メートルの滑走路2本が整備されたばかりだった。 |
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9日、空から見たニュウヨークは煤煙に隠れていた。ニュウヨークには8日間滞在したが、頭を痛めたのは欧州情勢だった。 1日にド イツ軍がポーランドに侵攻し、3日には英、仏がドイツに宣戦を布告し、第2次世界大戦が始まっていた。「行けるところまで行く」 が質問に対する乗員の回答だった。(9月13日) | ||
14. |
9月11日15時30分頃、岐阜県高山市の奥穂高岳(3190メートル)近くの山中で、遭難者の救助に向かった防災ヘリ(若鮎U)が墜落し、操縦士等乗組員3人が死亡した。地
上に降りた高山署員と救助隊員が遭難者をロープで上空のヘリに引き上げるための準備作業をしていた時で、後部のローター(回転翼)が急斜面の山肌に接触してバランスを
崩したとみられ、機体は大破し、一部は炎上した。山岳部の急ながけがそそり立つ、むずかしい場所ではあったが、一遭難者の救助に向かったヘリが墜落したことは何とも批
判し難く、今後の対応が注目される。(9月14日) | |
15. | 米デルタ航空と資本提携交渉を始めた日本航空に対し、米アメリカン航空の親会社AMRも支援に名乗りを上げていることが13日分かった。日航は当面デルタと交渉を優先さ
せる考えだが、アメリカンは日航と同じ国際連合グループに加盟し、関係が深い。航空業界世界1位と2位による「日航争奪戦」に発展する可能性もある。(9月15日) | |
16. | 日本航空の経営不振に関し、新内閣の国交大臣は、経営再建を支援するための「有識者会議」については、「白紙に戻す」。また全日空との2社体制はこれからも維持しな
ければならない」と語り、引き続き国交省の主導で再建シナリオを描く姿勢を示した。 ここまでは良いが、国交省が取り組むべき最優先の課題として「観光立国」のさらなる推進をかかげ、その為には「羽田の役割が大事になる」と述べた。私がひっかかるの は「観光立国Jの問題で、航空は観光立国のためのみではなく、すべての輸送機関が観光に役立ってはいるが、何も観光のみではなく、人を運ぶにはいろいろな用件で動きが あり荷物の輸送も今の経済立て直しに重要な役割があることを主張したかったのである(9月19日)/td> | |
17. | 米アメリカン航空、英ブリテッシュエアウェイズ、豪カンタス航空が経営危機の日航に共同で支援を申し入れた。3社はいずれも日本が加盟する国際航空連合「ワンワール ド」のメンバー。ライバルの「スカイチーム」に属するデルタは、日航に金融支援するとともに、自社グループに引き込み、アジア戦略を強化したい考えだ。(本稿11参照)3社側は、 日航がワンワールドから離れると、共同運航の解消などで5億ドル(約450億円)の損失が出ると強調。さらに日航がスカイチームに移ると日米路線 の約6割を同グループが握ることになる。今後の成り行きが注目される。(9月19日) | |
18. | 1939年9月16日ニッポン号はワシントンに到着。大統領に会見を申し込んでいたが、第2次大戦への対応で忙しくかなわなかった。18日にマイアミに飛行。退役大佐から
「飛行場にイアハートの記念碑があるから花輪を捧げて貰いたい」と頼まれた。イアハート氏は初めて大西洋横断に成功した女性パイロットであったが、37年南太平洋で消息を絶った。19日は
米国を離れエルサルバドドル)に向かう。 キューバ島周辺は「水の底までさえて藍色に澄んでいる」かつ、空港は山にかこまれた小さな飛行場であったが、中尾機長は市街上空を旋回して、 機体を軽くして見事着陸。在留邦人に歓待された。乗員の一人が腹痛を起こしたので2日遅れてコロンビア.カリにに向かった。カリは高山に囲まれた盆地で山すれすれに 飛んで着陸した。市長にすすめられ数泊したが、日本の田舎町とそっくりの風景に望郷の念がわいた。 |
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19. | 日航の再建について、この10日間の動きはまことに目まぐるしい。従来は、数千億円の補助金を受ける、国内国際路線の整理縮小、6800名の職員整理、更に米デルタ航空、アメリカン航空などの資産、業務提携であった。 | |
9月25日には国交省は「JAL再生タスクフォース」を設置し、10月末をめどに再生計画の骨子をまとめるという。 ところで、日航の再建をめぐる最大の負の遺産は、国の航空行政にあり、採算を度外視して地方空港をつくった結果、運航を強いられた日航は多くの路線で赤字をかかえた。撤退しようにも抵抗が強く、路線の廃止、撤退が進まなかった。 政府は22年度に、羽田、成田の拡張を通じて国際競争で優位に立とうとしているのでタスクフォースの手腕が期待される。 (9月26日) | ||
20. | 1939年9月23日 ニッポン号はベルーのリマに向かった。 24日はチリのアリカ。25日はサンテイアゴヘ海岸沿いに飛行。中尾機長は「一番悩まされたのは南米全土を覆っている雲と霧だった」どの飛行場も雲霧の層を突き抜け、い ったん海面に出て飛行場を確認し、低空から着陸する技術を要する。 27日はアンデス越え。6000〜7000メートルの雪山を越え、酸欠を防ぐため、病院用の酸素球を3個用意し た。5時間弱でブノスアイレス着。29日ブラジルのサパウロは深い霧で着陸出来ずサントスに不時着した。(9月30日) |
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21. | 羽田は現在3本の滑走路で、年間発着回数は29.6万回。08年の利用者数はで全人口の半分を占め、アトランタ、シカゴ、ロンドンに次ぐ世界第4位の空港である。 しかも国や都が6700億円を投じて2010年10月末までに完成で第4滑走路を建設中である。この建設法が今までの埋め立て構造に加え、多摩川の流れを妨げない桟橋構造を採用(左図接続部参照)している。滑走路の長さは2500mだが、その人工島の大きさは3100×500mであり現空港と結ぶ連絡誘導路は620mの巨大桟橋である。 |
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これが供用開始されると年間発着回数は1.4倍となり、年間40.7万回までが段階的に引き上がる。さらに今回の目玉になるのが国際線定期便の大幅増である。具体的には、昼間には東アジア各国、深夜早朝時にはロンドン、パリ等欧米を含む各国が1日40便ほど加わる予定である。成田空港の約3割の国際線が加わる水準である。従って新国際線ターミナル地区の建設も進んでいる。
ビルは5階建てで、プラネタリウムや乗継ぎ客の休憩施設を含む。駐車場として7階建て、2300台を収容する。
国際貨物の処理に隣接施設を建設する。宿泊施設や飲食店を含むと一応の経済効果が期待できる。 これらの計画によって、私が"はねだ"に記した空の日に関する記事で力説した今こそ羽田航空博物館を建設する絶好の機会だと考える。(10月1日) (上記は週間東洋経済10.3号参照) | ||
22. | 1939年9月29日にサントスに不時着した。日本人の多いサンパウロを望んだが、陸軍の指示でやむなくリオデジャネイロヘ、10月4日にはナタールに飛行した。いよいよ難所の大西洋横断となる。 9月中に欧州で戦争が激化、 ドイツ、フランスも運航を停止していたが、無線で気象情報を提供してくれた。 5日0時48分ナタール発13夜の月は幻のごとくであった。11時間で到着予定のところ、逆風のため1時間遅れ、ダカールが突然視界に入った。結局12時間の太西洋横断で、太平洋に次ぐ大飛行であった。 |
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ダカールも戦争体制で、6日早朝仏領モロッコに着陸して、あらためて砂漠のカサブランカヘ到着し、いよいよ戦乱の欧州上空飛行となるのである。(10月7日) | ||
23. | 二酸化炭素(C02)の排出削減のため、全日空は昨年から乗員訓練所の実機フライトをシュミレーターに切替え、東京−大阪間1万9千キロ往復分29万キロリットルを削減した。 日本航空は航路について気象条件の良い飛行経路を選び、かつ離着陸時に走行距離が短いスポットを選ぶ。また、機体や機内の部品にも及び、タイヤ素材で80キロの減量、 機内食の皿の軽量化、機内誌質の改良にも及ぶという。(10月11日) | |
24. | 空港問題と政治主導:羽田から搭乗率90%で飛来したB777(525人乗り)が福岡空港に着陸した場合、停留時間4時間と仮定して、着陸料、保安料、航行援助施設利用料の合計86万3千円を毎回国に支払う。こうして20の国営空港が1年間に受け取る空港使用料が2084億円。これを主な財源として空港を新設する仕組みが「空港整備勘定(空港整備特別会計)− 空整特会)」である。 これがムダな空港を造るモトであり、見直しを求めるのが前原国交相である。これに対し財務省幹部は「いまや空整特会最大の支出は羽田の再拡張(4本目の滑走路新設)であり、それに過去の空港整備に費やした借入金の返済や、管制官の給料等の維持費はどうするのか?」「ムダな空港が出来たのは特別会計のせいではなく、政治ですよ」ということで、新大臣は今から勉強が大事です。(10月12日) | |
25. |
来年10月、羽田空港の滑走路が1本増えて4本になると、年間3万回の発着が増え、国際線ハブ空港を仁川やシンガポール等に負けない基幹空港とするという国交省大臣の 発言に千葉側が怒りを示した。深夜、早朝の飛行制限がある成田を羽田が補うなど、両空港を一体化して運用し 「首都圏空港」とする方針を示して双方の問題は一件落着した。 ただ、新滑走路の3分の1は桟橋型のもので、我が国では初の工事で、航空機の運航に特に安全性に問題がないか、騒音問題が新たに発生しないか、管制、運用方法に問題はないか等、私は11月に見学の機会があるので、現管制官の意見も聴いて再考してみたい。(10月15日) | |
26. |
今回のニッポン号はモロッコからイラクヘの飛行です。
中尾機長は「全コースの1/3を残しているが日本はもうすぐだという気分になった」と。ローマでも歓待され、皇室や政府から激励電報が届いた。 |
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13日には仏領だったシリア上空を飛び、英国が占拠するバスラ(現イラク)へ。出迎えなし。一行の願いはゆっくり温泉で一ヵ月位過ごしたいというものであった。(10月15日) | ||
27. |
1939年10月14日、ニッポン号はイラクのバスラを出発しカラチ(現パキスタン)に2泊、16日朝離陸したが、黒い杉の大木のようなものが翼端をかすめるのを大原使節は窓から見て驚いた。中尾機長は「しまった、ダメだ」「助かった。ありがたい」と同時に危機一発をよろこんだ。そしてコルタカヘ向かった。 |
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紀伊半島で民謡「串本節」を頭に浮かべ、「日本の自然は瀬戸内海の魚に似て小味な奥ゆかしさがある。自ら完成した天の技巧である。」間もなく富士山を左に見て、佐藤通信士は忙しく眼下の風景を羽田に送る。そして13時47分群衆が見守る中東京着。 機長、使節など皆涙した。70年前の今日、ニッポン号は56日間かけて5万2860キロの世界一周をなしとげたのである。(10月20日) | ||
(筆者注)この大毎のニッポン号の記録は、毎週一回7−8回にわたり連載されたものだが、同社の論説委員玉木氏は「冒険のみずみずしさ」と題して次のように述べている。 「機長中尾氏が丁度ライト兄弟の初飛行(1903年)に生まれたのは象徴的である。彼は体系的な操縦教育を受けた第1世代の人物である。次々に開発される試作機のテスト飛行を繰り返してきた人である。だが時代は日中戦争をはじめ、世界戦争の中で、新聞社の航空機も徴用され、遂に敗戦。日本は翼を失ったが時代は移る。再び国産旅客機開発に力を注ぎ、宇宙開発にも参画している。70年前、当時の技術で最後の「空の大冒険」をなし遂げたチャレンジ精神が、みずみずしいヒントや励ましを今に発信してくるのではないか」と結んでいる。(10月20日) | ||
28. | 10月22日をもって成田のB滑走路が2500mの長さで運用を開始した。今まで地元との話し合いがつかず2180mで使用しているものを320m延伸したのである。これによって
年間2万回の発着増となる。この3月に米フェデラル.エクスプレス社の機が各座しA滑走路が長時間使用不能となったことから、来年3月オープンを5カ月繰り上げたものである。また、成田新高速鉄道も来年7月開業予定で空港アクセスも良くなる。(10月22日) | |
29. |
国交省の「羽田を日本のハブ空港にするJという発言から、いろいろな問題が出たが私見を述べさせてもらう。 まず、成田のBラン延長で発着回数は1割増えて22万回となる。同じく羽田のDランが出来れば44万7千回となる。これらは机上の計算であって、需要予測は時の経済状況如 何によるところが多く、最も困難な作業である。マイナス要因として、羽田のDランについては新たな騒音問題が、特に千葉県あたりに起こらないか?DランはBランに平行しているが、今のBランでも騒音の他に、川崎市上空を飛行しない制度があり、これは原子力企業があるので、万一を考えてBラン使用は北向き出発、着陸は北からのみという制約がある。 乗降客の増減は時の経済状況により、経済の好不況の変動は、20年周期又は40年周期と学説はさまざまである。良い例が名古屋国際空港で、なるほど中部工業地帯のおかげで、開港翌年までは順調であったが、昨年から今年にかけては予想を裏切った。 | |
30. |
今度こそ甘えは許されない。唯一の国際線を運航した日本航空は「ナショナルフラグキャリアー」(国を代表する航空会社)として、事実上公的管理下で再建を目指さねばならない。 今までの再生案は3大銀行を中心とした3千億円の債券放棄と株式化を内容としたが、政府保証も加わるにあたり、財務相は「良識ある世論が納得できる案が出来て、初めて政府支援ができる」とし、年金問題の解決が支援の前提だとクギを刺した。また多くの負採算路線は、地方の求めに応じて空港を乱立させ、空港と航空路線を巡る政治と航空行政と地方の3者が追い詰めたことも事実である。 そこで年金問題だが、生活に直接影響が出るOBが引下げに応ずる公算は小さい。手続きの条件緩和など特例規定が検討されるとみられる。 日航には8つの労組がある。これらの整理、統合と現経営陣の刷新も避けられないと思われるが、時間を要するので、その間の安全運航に万全を期して貰いたい。(11月 1日)/p> | |
31. | ニッポン号が世界一周飛行を果してから今年で70年。その後敗戦により航空機の開発が禁止されて「空白の7年」の後、国産初の旅客機「YS-11」が出現したが、航空産業者は一様に「あの空白の7年が今も尾を引いている」とそろって口にする。「YS-11」は、三菱、富士、川崎、各重工、新明和から名うての設計者が揃って期待を背負って製作した名機であった。しかし、販売がふるわず182機で生産を終了した。 しかしながら、70年代、米国ボーイング767、777の共同開発で実績を重ね、次世代主力機の787は約35%が日本企業によるものであり、国産ジェット旅客機への素地は整っていた。三菱が2012年に初飛行を目指す「MRJ」(三菱リージョナルジェット)の開発に乗り出したのは、経済産業省が03年に打ち出した「環境適応型高性能小型航空機」の研究開発に対する支援がきっかけであった。当初30〜50席を想定したが、アジア市場の需要が見込まれたので、70席、90席クラスに計画変更した。 世界一周を果たしたニッポン号からYS-11、次世代の中小型ジェット機MRJへ、日本の航空技術は進化を重ねて次世代へつながっている。(11月2日) |
第43号 平成21年6月1日発行 「民間航空界の動き」
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第42号 平成20年12月1日発行 「民間航空界の動き」 顧間 久保 俊郎
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第41号 平成20年6月1日発行 「民間航空界の動き」 顧間 久保 俊郎
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第40号 平成19年12月1日発行 「民間航空界の動き」 顧間 久保 俊郎
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第39号 平成19年6月1日発行 「民間航空界の動き」 編集部
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第38号 平成18年12月1日発行 「民間航空界の動き」 編集部
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第37号 平成18年6月1日発行 「民間航空界の動き」 編集部
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第36号 平成17年12月1日発行 「最近の航空ニュースから」 編集部
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第35号 平成17年6月1日発行 「民間航空界の動き」 顧問 久保俊郎
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第34号 平成16年12月1日発行 「最近の航空ニュースから」 顧問 久保俊郎
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第33号 平成16年6月1日発行 「最近の航空界のニュース」 顧問 久保俊郎
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